答えなんかない,といわれるとますます答えを探したくなるものです。「そのうち」という言葉が社交辞令として発せられたものかどうかはそのうちわかるものです。

──こんな出だしで原稿用紙の二行目以降が埋められていた。一行目は空行だった。鉛筆で書かれていた。何かを書こうとしていたらしい。古いファイルやノートが入ったダンボールを漁って見つけた。

「S君がピアノじゃなくてギターを弾いてくれたらいいのに,と思うの。その指が動くのを見ていたい」とNは言った。
「はは。無理だろうね。ギターなんて弾けそうにない」と僕は返答した。
「先に帰るね」と席を立った僕にNは「土曜日は何か持っていく?」と聞くので,「ギターかな」と返してみた。

照明を落とした部屋の暗がりにようやく目が慣れてきた頃。
僕はずっと黙っていたNの左腕をつかんで引き寄せた。指先はゆっくり背中をはうように動く。Nは僕の体に両腕を回し,締め付けた。

「誰の代わりなのか知らないけれど」
Nは言った。「私,脱がないよ」
「いいよ。別に。触りたいだけだから。なでてたいだけだから」

僕は,少し強めにNを抱きしめて「痛くない?」と聞いてみた。
「痛い」
「そう」
腕をゆるめ「横になろう」と僕はNと一緒にベッドに並んだ。仰向けのままNの右手をつかみながら「ねぇ,このまま一緒に寝ようよ。たぶんNが一緒なら明日まで眠れると思うんだ」
「眠れないの?」と同じく仰向けのNが聞いてきた。手はつないだままだ。
「いつものこと。こないだも話したでしょう? 寝付きは悪いし,昼間はよけいに眠いしさ」
「寝なくてもいい身体じゃないのね」
「そうだったらいいのに,と毎日思ってるよ」

Nは僕の方に身体の向きを変え「一緒に寝られたらいいんだけど」と言った。
僕の左腕はNを腕枕する格好になっている。Nを方を向き,右手でNの腰に手を当てた。
手の届く範囲を確認するように,指をはわせた。

「私なにかしたほうがいい?」
「ん。そのままでいい」
「どうして?」
「別に理由なんかないよ」
「私に興味ない?」
「興味がないわけじゃない」
「口でしてあげようか?」
「別にいいよ」
少し間をおいて僕は「ねぇ。一緒に寝ようよ」ともう一度頼んだ。

「S君の好きな人はどこにいるの?」
僕は黙っていた。
しばらくして「わからない」と言った。
「そう。私はS君のことが好きだよ」
「ありがとう。知ってるよ」
「じゃぁ,帰るね」
「うん」

僕はNが服を着る様子をただ眺めていた。
下着を付け直し,薄いグリーンのシャツに袖を通し,プリーツの入っていないスカート履いたところで「服を着るところ見られるの恥ずかしいんだ」と言った。
「ん。ごめん。他意はない」
「他意があってもいいんだけどな」
バッグを手にとってNは玄関へ向かう。

「今度の土曜日に来て」とNの背中に僕は言った。
Nは僕の方を振り返らずに「いいよ」と言った。
僕はNが靴を履いている間に玄関を開けて外にでた。
「送ってくれるの?」
「そうした方がいいかな?」
「いい。一人で帰れるから」
そう言ってNは「おやすみ。よく眠るんだよ」とエレベータへ向かって歩き出した。

僕は寝室に戻った。ベッドは何事もなかったように静かにあった。寝られるかどうかで言えば,寝られるだろう。さっきまでNと手をつないだ感覚をまだ覚えている。きっとその感覚のおかげで,眠れるだろう。僕はYと手をつないだことはない。たぶんNはこのことを知らない。

「Sさん!
どーせあと20年もすれば,肝臓だの血圧だのとなんだかんだで薬を飲むような生活になるんですよ?
何もいまから好きこのんで,薬を飲むような生活なんてしなくていいじゃないですかー」

あー。
そのとーりだなー。
Yはすごいなー。
元気だなー。

最近涙もろい……。
いぁ,涙が流れるほど,泣きはしないのだが。

なにかにつけて,イライラしながら,ふと気付くと途方もない虚無感がおそってきてこみ上げそうになったり。

一方で映画なんかを見てるとそれもやばいわけですよ。
さっきも「クレイマー,クレイマー」をBSで見て,突然泣きそうになる始末。いわゆる泣ける映画じゃない,と僕は思うのだけど,ダスティン・ホフマンの来ているツイードのジャケットが格好いいなぁとかそういう感想も持ちながら,ふとした場面で泣きそうになる。

時期的なもんかね。
波がきてるんだよね。
きっと。

なにをしても,イライラしながらおそってくる莫然とした不安というか恐怖。
明日も仕事しなきゃ。また他人を攻撃する。イライラがさらに追い打ちをかけることになるだろう。でもその人ができないのが悪いという理由で,僕は自身を正当化する。それはきっと客観的には正しいし,論理的に正しいのは僕だ。でも,その後におそってくる莫然とした不安に僕は勝てない。それはさらに人を攻撃するよりどころとなり自分に戻ってくる。きっと。繰り返し。繰り返し。

「だって30歳過ぎてるんでしょ?」
──ん。
「余裕なの?」
──んー?
「私にはそんな余裕はないんだ」
──で。どうしろと? 僕にはどうしようもないんだけどな。