夢を見たのは君か?

そこにあるものは常に両義的である。それは常に記号として存在する。例えば,ここ数日見た夢の中で,私が性交した相手は,具体的なある女性,ではなく「女性」という観念にかかわるものであり,具体的な男性,ではなく「男性」という観念に関わるものである,と言える。登場する「女性」あるいは「男性」は,たしかに映像としてそこに居た。そして同時に,私も日常を生きる私ではない観念の「私」としてそこに居た。たまたま夢の中の物語として,テクスト化され,ある女性となり,ある男性となり,あるキャラクターとしてその表現技法に沿って具体的に造形され,映像化されただけのこと。任意の「誰か」が問題になっているわけでは決してない。
両義的というのは,それは,女性・男性へと私を引き付ける記号であると同時に,女性・男性へと私が近づくことを躊躇させる記号でもあるという意味においてだ。私は,具現化された映像に,例えばシャツからのびた二の腕を前にして,欲情しそうになりながら,欲情することをためらう。私が私であることを認識していながら,私ではないという思いが相当強くあったのだ。
この夢は,誰もが望み,それゆえ私だけの欲望ではないという他者の欲望を欲望するというポルノグラフィの構造モデルの一つを体現しているように感じたのだった。自分の性が両義的であったことはなかなか面白かったのだけれど,それはともかく,自分が自分でない誰かを自分として認識し欲望の端的な形である性行為を行うというのは,まさに他者の欲望を欲望するのだ。